知識とアイデア

 教室では子どもたちにいろいろな質問をする。子どもたちの中には、大人顔負けの知識を持っている子どもがいる。特に、恐竜や昆虫の名前、鉄道や駅名などの膨大なカタログ的知識を持つ子がいる。また、科学についての知識があり、工作の原理をすばやく理解する子どもたちも多い。

 つくつくクラブの工作には毎回、課題がある。原理を理解したうえで、自分で考えてオリジナルのアイデアを発揮するというむずかしい課題だ。お手本を見せたり、他の子どもたちの作品を見せたりして理解を促し、「ボク いいこと思いついた」「こんなのどうかな」とじぶんなりのアイデアを考えてもらう。最初はお手本のコピーやモノマネでもいい。学年が上がるにつれて、自分で考えられるようになってほしい。

  そこで毎回思うのは、知識とアイデアは別ということだ。知識の多い子がいい作品や面白い作品を作れるわけではない。新しいものを自分なりに考えること、クリエイティブであることは、楽しいことであると同時に、苦しいことでもある。作る前にじっと考え込んでいる子どもを見ると「ガンバレ その時間が一番大事なんだ」と応援したくなる。
 
 日本の製造業はかつて、欧米で作られた製品を輸入して、そっくりにコピーしたり、さらに高品質、高機能なものに高めたりした。そして、それを輸出することで、高度成長をもたらし、ものづくり大国になった。しかし、今、かつての日本がしていたのと同じことを中国がしている。
 これからの時代に、日本のような先進国がしなければならないことはなんだろうか。それは、新しいアイデア、新しい製品、新しい社会システムを創造することだ。頭を使い、アイデアを搾り出し、新しい価値で人々を幸せにしたり、楽しませたりすることだ。

 知識習得に偏りがちな日本の教育だが、本当に必要なことは、それらの知識から創造され、導き出されるものだ。大胆な言い方をすれば、知識とは誰かが過去に考えたり作ったりした事物であり、アイデアは未来を変える考えである。知識の量ではなく、知識をどう役立てるのか、それが今問われている。

 アメリカの教育ではディベート(討論)が盛んに行われている。グループなどに分かれて対立した意見を戦わせる討論だが、自分の意見を導き出すためには多くの知識とデータの分析力、自分なりのアイデアや洞察力、さらにそれを人に伝えるコミュニケーション能力が必要だ。これは知識に生を与えるための総合的な教育方法と言える。ただ、ディベートという討論形式は、和を尊ぶ日本の文化にはそぐわない教育法方かもしれない。もし、そうであれば、日本の教育の随所にも考えさせる教育、創造する教育を取り入れてほしい。私の子どもが通っていた川崎市立の小学校では、運動会も文化祭(学習発表会)もすべて、子どもたちが企画し、計画し、実行していた。よく考えたなぁと思う企画もたくさんあった。ゆとり教育の成果なのかもしれないが、子どもたちの生き生きとした姿が印象的だった。
 工作教育はアイデアや工夫、創造力を鍛えるには最高の教育だと思う。加えて、自分の作品をプロモートできるコミュニケーション能力がつけば最高である。

  私が子どもの頃は、モノ覚えがよく、先生の言う通りにする子がいい子だった。教育とは命令どおりに動き、働くためのトレーニングだったように思う。 いまや時代は変わった。

< 学年末工作コンテスト 卵落としコンテスト>
生徒たちが考えた卵を保護するカプセル